2026年5月 アーカイブ
2026年5月8日 8時07分03秒 (Fri)
足底の使い方の再々検討
以前から、「足底の使い方の再検討」等のブログで足底の使い方について考えてきましたけれど、自然体或いは構えにおいて、足底の何処に荷重の中心を持ってくるのかという疑問には、いまだに明確な答えが出せません。
足の横方向の外(小指)側より内(親指)側に荷重の中心を持ってくるべきであることは、ある程度確信が待てます。ただ、前後方向において、つま先側に持ってくるべきか、或いはかかと側に持ってくるべきかは、なかなか答えが出せません。
現代武道や格闘技では、だいたい、つま先側、具体的には、足の親指と人差し指の間辺りで母趾球の辺りに荷重の中心を持ってきています。古流でも、この辺に持ってきている流儀が多いように見受けられます。結果として、かかとへの荷重が軽くなるか、或いはかかとは少し浮きます。
一方で、昔はかかとを上げなかったと主張される方もいらっしゃいます。たしかに、柳生新陰流はかかとをあげないように見えます。宮本武蔵も、五輪書で「歩くときのように、かかとを強く踏むように」と説いています。
以前に読んだ武術書で、「かかとをわずかに浮かせることが基本です。これが武蔵の言うところのかかとを踏むということなのです」という趣旨の記載を見たことがあります。ここまでくると、禅問答ですか???という感じで、凡人の私には理解できませんけれども、少なくとも、同じような疑問に答えを出そうとしていらっしゃることはわかります。
近ごろ、ふと、「つま先立ちは良くするけれど、かかと立ちはしないな」と思って、ためしにかかと立ちを多くした生活を送ってみました。そうしたところ、しばらくして、もしかしたらこれがかかとを踏む感覚かも、と思う歩き方に到りました。あくまでも、そういう気がするというだけですけれども。
ただ、この感覚のうえで、稽古をしてみると、かかとを上げないまま動くことが出来ますし、むしろこちらの方がしっくりくる場合があります。
そうすると、以前のブログで「武術等での立ち方と、安定的な立ち方とは違う」と書いたことは、間違えであったことになります。
それで、私なりに、今のところの、つま先側とかかと側の切り替えの条件についての仮説を立ててはいますけれども、この手の考えは都度変わりますから、もう少し検討してみたいと思います。
まぁ、検討に終わりはないでしょうし、結論も出せないのでしょうけれども。
足の横方向の外(小指)側より内(親指)側に荷重の中心を持ってくるべきであることは、ある程度確信が待てます。ただ、前後方向において、つま先側に持ってくるべきか、或いはかかと側に持ってくるべきかは、なかなか答えが出せません。
現代武道や格闘技では、だいたい、つま先側、具体的には、足の親指と人差し指の間辺りで母趾球の辺りに荷重の中心を持ってきています。古流でも、この辺に持ってきている流儀が多いように見受けられます。結果として、かかとへの荷重が軽くなるか、或いはかかとは少し浮きます。
一方で、昔はかかとを上げなかったと主張される方もいらっしゃいます。たしかに、柳生新陰流はかかとをあげないように見えます。宮本武蔵も、五輪書で「歩くときのように、かかとを強く踏むように」と説いています。
以前に読んだ武術書で、「かかとをわずかに浮かせることが基本です。これが武蔵の言うところのかかとを踏むということなのです」という趣旨の記載を見たことがあります。ここまでくると、禅問答ですか???という感じで、凡人の私には理解できませんけれども、少なくとも、同じような疑問に答えを出そうとしていらっしゃることはわかります。
近ごろ、ふと、「つま先立ちは良くするけれど、かかと立ちはしないな」と思って、ためしにかかと立ちを多くした生活を送ってみました。そうしたところ、しばらくして、もしかしたらこれがかかとを踏む感覚かも、と思う歩き方に到りました。あくまでも、そういう気がするというだけですけれども。
ただ、この感覚のうえで、稽古をしてみると、かかとを上げないまま動くことが出来ますし、むしろこちらの方がしっくりくる場合があります。
そうすると、以前のブログで「武術等での立ち方と、安定的な立ち方とは違う」と書いたことは、間違えであったことになります。
それで、私なりに、今のところの、つま先側とかかと側の切り替えの条件についての仮説を立ててはいますけれども、この手の考えは都度変わりますから、もう少し検討してみたいと思います。
まぁ、検討に終わりはないでしょうし、結論も出せないのでしょうけれども。
2026年5月1日 17時25分46秒 (Fri)
武道と礼儀の関係(あくまでも個人的見解)
武道を学ぶ理由として、礼儀が身に付くからということを良く聞きます。
武道の中核を成す技術が、相手の制圧、揚合によっては殺傷を目的とするものであることからして、相手に対する無礼の極みと言えるにも関わらずに、武道は何かと礼儀と結び付けられます。
ここから先は、私の勝手な考えなのですけれども、上述の中核を成す技術を学ぶのに、別に礼儀は要らないと思います。ただ、礼儀でもなければ、それを学ぶ機会が無くなるとも思います。
それというのも、ただ単に上述の技術を学ぶだけの人物、団体であれば、周囲から危険な人物、団体と見なされて、社会的に排除されるからです。そうすると、外に向かっては、「私、我々は、礼儀正しいですよぉ~」とアピールする必要が出てきます。もとがマイナス要因から出発していますので、ある意味度をこして礼儀正しさを強調しなくてはなりません。さらに尊敬すらされたいのなら、「道」なる文字を付けて、高尚なイメージを付けることに腐心することになります。
また、内に向かっては、稽古相手に対するいたわりが必要になります。技の本来的な使い方ばかりを求める稽古をしていては、相手に怪我を負わせることになり、結果として稽古相手がいなくなるからです。
相手をいたわりながら、相手を痛めつける技術を学ぶという、考えてみればおかしな状況ではありますけれども、稽古を続けるうえで重要なことです。
武術に礼儀を足したものが武道だという考えもありますけれど、武術や格闘技でも、それを続けるには、やはり礼儀は必要になります。
武道の類いを学びたいという者には、強くなりたい、つまりは人より秀でたものを持って優越感を得たいという者が少なからずいると、私は思っています。ですから、そんな者が他者に迷惑をかけないために、また、社会から孤立しないために、礼儀という重石をのせて謙虚さを身に付けてもらわないといけないと思います。
ただ、たまに何のための礼儀なのかが分からなくなっていて、組織内の変なローカルルールになっているものもありますから、注意が必要です。上で「度をこして」という表現を使いましたけれども、やり過ぎはかえって社会常識から外れることになりますから、結局、普通に、常識的に、他者に対する気遣いやいたわりを持って、生きていきましょうという結論になります。
武道の中核を成す技術が、相手の制圧、揚合によっては殺傷を目的とするものであることからして、相手に対する無礼の極みと言えるにも関わらずに、武道は何かと礼儀と結び付けられます。
ここから先は、私の勝手な考えなのですけれども、上述の中核を成す技術を学ぶのに、別に礼儀は要らないと思います。ただ、礼儀でもなければ、それを学ぶ機会が無くなるとも思います。
それというのも、ただ単に上述の技術を学ぶだけの人物、団体であれば、周囲から危険な人物、団体と見なされて、社会的に排除されるからです。そうすると、外に向かっては、「私、我々は、礼儀正しいですよぉ~」とアピールする必要が出てきます。もとがマイナス要因から出発していますので、ある意味度をこして礼儀正しさを強調しなくてはなりません。さらに尊敬すらされたいのなら、「道」なる文字を付けて、高尚なイメージを付けることに腐心することになります。
また、内に向かっては、稽古相手に対するいたわりが必要になります。技の本来的な使い方ばかりを求める稽古をしていては、相手に怪我を負わせることになり、結果として稽古相手がいなくなるからです。
相手をいたわりながら、相手を痛めつける技術を学ぶという、考えてみればおかしな状況ではありますけれども、稽古を続けるうえで重要なことです。
武術に礼儀を足したものが武道だという考えもありますけれど、武術や格闘技でも、それを続けるには、やはり礼儀は必要になります。
武道の類いを学びたいという者には、強くなりたい、つまりは人より秀でたものを持って優越感を得たいという者が少なからずいると、私は思っています。ですから、そんな者が他者に迷惑をかけないために、また、社会から孤立しないために、礼儀という重石をのせて謙虚さを身に付けてもらわないといけないと思います。
ただ、たまに何のための礼儀なのかが分からなくなっていて、組織内の変なローカルルールになっているものもありますから、注意が必要です。上で「度をこして」という表現を使いましたけれども、やり過ぎはかえって社会常識から外れることになりますから、結局、普通に、常識的に、他者に対する気遣いやいたわりを持って、生きていきましょうという結論になります。
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